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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

立石孫一郎についての考察

立石孫一郎を書いた時に…。立石孫一郎は南奇兵隊の150名の脱走兵を率いて備中天領倉敷代官所を襲撃した人です。この人に何があったのか、今この人になぜ関心が集まっているのかその事について書き進めたい…。


四十年前に書いた大橋敬之助の事を思い出しています。その時は私も敬之助と同じ年齢でした。
私も彼と同じ江戸時代の大庄屋の末裔です。
私は歴史家でもなく郷土史家でもありません。書くに及んで色々なものを調べたり読みました。また、大橋家にも足を運びました。何度も早朝、まだ明けやらぬ倉敷川にかかる三つの石橋を歩き橋に寝転んで明けゆく倉敷の、美観地区の空気と音を体験しました。
正義感が強かった、その事が妙にひっっかかっていました。それは大竹代官が裁いたものを櫻井代官が倉敷は港ではないので津溜めなど起ころうはずもないという裁きで端を発した、下津井屋事件の犯人が敬之助ではおかしいのではないかと言う疑問でした。それは俗に言われている正義ではないと思ったからです。櫻井を児島屋、浜田屋をなぜにやらなかったのか、なぜ下津井屋なのかと言う事でした。津留め破りをして儲けていたのは児島屋であり浜田屋で下津井屋はその下で動いていただけであったのです。敬之助犯人説に納得がいかなかった。正義と言うのなら櫻井を、児島屋を、浜田屋を襲う事でなくてはならないと考えたのです。
私は世間の書いている事に反目して敬之助を犯人にはしませんでした。
当時、倉敷の商人は商売の傍らで金貸しをして財をなしていました。百姓に金を貸し払えなければ土地を取り上げると言う事は当然でした。家柄は関係なく金で名字帯刀が買えていました。世渡りと商い上手で商人たちは旦那と呼ばれ政治を行うまでに大きくなっていったのです。
敬之助、幼い頃から父の跡を継ぐべく庄屋学を修めていた事でしょう。つまり人間としての人望です。自分の事より多くの人の幸せを思う心をはぐくむ事でした。大谷家、立石家、大橋家は親戚同士でしたからそのころの同じ教育を受けていたはずです。
敬之助が大橋家に養子に迎えられると、倉敷の旦那衆は温厚で学があり人を引き込むお人じゃ、中島屋はええ婿を貰いなさった、と羨み、評判であったと言う。
そんな彼が短慮に事件を起こす事は信じられません。
江戸の末期とは言え、この事件が起きたのはまだ幕藩体制が維持されていた時期です。
敬之助が立石家で尊王のかんがえをいくら叩き込まれていても倉敷では、江戸時代の末期を予感したとしても、まだ動いてはいなかった。
大橋家の末孫の人達には申し訳がないが、後の倉敷代官所の襲撃の火種を作ったとしても下津井屋の皆殺し放火は敬之助とは判断し難いのです。司馬さんは倉敷の郷土史家に基づいて書いています。冷淡に人を殺す敬之助を書いていますが、江戸時代の武士達は映画やテレビのように人を殺してはいません。それは武士道に反することだからです。質素であり行いの総てを主君に捧げていたので無駄な事はしていません。私の家は庄屋の次男坊で武士の家に養子に上がっていますからその事は承知しています。
台本は時代背景のために、坂本竜馬、高杉晋作を出しています。
今、明治維新の事は新しくなりつつあります。ここで、坂本竜馬に金の亡者を演じさせました。彼は長宗我部の残党で郷士です、そんな彼が動き回るのに金が必要であったのにどこから調達をしていたのか、ここで私も立ち止まりました。グラバーとの出会いでした。この事は今では常識になっていますが、そのころにはその関係を問うものは一人もいませんでした。司馬さんも一切触れていません。彼と敬之助、高杉晋作を絡めました。そして、一気に倉敷代官襲撃へと走らせたのです。
大橋さんからメールを貰い、当時を想起し、また検索で調べましたが総てが敬之助犯人説でした。
けいさんが何か残してはおられませんか、口伝が残されていませんか・・・。
私は一介の戯作者です。
私の想像力は正しいとは思われません、が、疑問があった事をお伝えしたいと書きました。
大橋家は西も東もありません。屋号の中島屋と東中島屋という本家と分家があったと認識してください。
明治維新によるクーデターで日本には沢山の明治政府による歴史の真実が改ざんされている現状はあります。

考えに邪魔になれば総てを水に流してください。


ご出版ご苦労様でした。

もう40年も前に立石孫一郎を書いたものです。また20年前にそれを脚色して「天領倉敷代官所炎上」を倉敷芸文館ホールで公演しました。
40年前と言えば検索もなく手探りで書いたのです。角田氏や井上さん、司馬さんの「倉敷の若旦那」などを読みそれらを参考にして書き上げました。
創作として孫一郎に竜馬、晋作を絡めました。
先月、大橋さんと言う人からメールが届きました。なんでも敬之助の子のひろのゆかりの方で、つい最近大橋家との繋がりがわかりその糸を手繰っているとのことで、私が孫一郎の台本を書いて上演した事を知って書かれてなかしていれば教えて欲しいというものでした。
私は孫一郎を書いていて、分からなかったのは竜馬でした。40年も前です、今のようにクラバー、ロスチャイルドの事は明らかになっていません。竜馬には経済的な基盤が何処にあったのか、グラバーに行き着きました。亀山社中の金主をグラバーではないかと思うと、竜馬が日本での武器商人である事を確認しました。
孫一郎は高杉、坂本に関係してはいなかったか、そんな思いが消えませんでした。40年前の事を思い浮かべて書いていますので、ですが、私の中ではよく覚えている事なのです。
私は歴史家、郷土史家ではありません。一介の戯作者です、
改めて書きなおす事はしません。ここで色々と読ませていただきそのご苦労をありがたいと思っています。
櫛部坂太郎の写真と言うのは私も納得がいきません。どこで写したのでしょうか・・・。


倉敷浅尾陣屋騒動の背景のこと
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このアルバムには 1 枚の写真があり、OneDrive で 2016/07/23 まで閲覧できます。
大橋さん、そうですか、倉敷市がと言う感じです。地元にいる私も初めて知りました。倉敷市文化振興財団の仕事から離れていますので…。
ひろえさんの目でしっかりと確かめてください。立石孫一郎は私恨のためにだけで倉敷代官所を襲撃してはいないと言うのが私の持論です。高杉晋作には備前藩池田の動きがつかめなかった。徳川慶喜の弟が藩主でしたから。津和野から京を目指す道と、また大軍をひきつれて山陽道からとなると備前藩の動きがどう出るかが問題だった。備中の放虎になって老中板倉の松山を攻めようとしたのはなぜなのか。これは津和野から京への行軍の妨げになる、これなどは私恨からでは起こらない事です。その時期に高杉晋作らは何をしていたのか、坂本竜馬は…。私には孫一郎は陽動作戦をしていた、坂本と高杉の、つまり薩長の表に出ては困る裏取引が行われていた。グラバーからどのような指示が出ていたのか。このような考えは郷土史家にはありません。書いた作品を書きなおす事はありません。大橋敬之助、私のなかでは生き続けています。がこれ以上彼のこころに入り込む事は不遜であるという思いです。明治維新。を支えて一人の人間として、良いにしろ悪いにしろ、足跡には注目しています。
備前藩は幕府にも薩長にもつかなかった、ゆえに函館戦争の折り薩長の命令で戦っています。
私は倉敷の生まれではありません。家人の故郷です。東京に変えるつもりが50年も住んでしまいました。倉敷を書くために倉敷を調べた時期があります。
源氏平家の戦いの水島合戦、俗に言う藤戸の合戦の折りらは名もない漁村でした。松山川(高梁川)がおし流す土砂により、その名もない漁村の前には干潟が広がりその支流が今の倉敷川になっています。くらしき、これは蔵があったから、小さな山の上に倉子城があったから、その真実は分かりません。江戸時代にはその川沿いに林立する倉があり石垣を満潮の時には波が洗っていたという事で波倉の町と呼ばれ親しまれたという事です。
幕末のころ大橋敬之助は倉敷に来て何を考えていたのでしょう。何を見たのでしょう。往時をしのぶ街並みが、観竜寺の墓所には多くの倉敷で生きた人の息使いがあるのかも知れません。
6月に来倉されてひろえさんの縁戚の方々が生きたところを見る事で偲んで見て下さい。
また、ひろえさんの親戚の方を敬称なく書きました事をお許しください。
倉敷は熊本より離れていますので地震の事は大丈夫でした。ありがとうございました。

大橋さん、敬之助の御子の事は大橋家の菩提寺に行けば分かるとおもわれます。江戸時代は寺が戸籍係をしていたようなものですので。出産、死亡は過去張に残っているはずです。倉敷は戦火を受けていません。おけいさんを養女と書きましたが江戸から明治にはその事例はたくさんありました。外の女性に生ませた子を養女として迎えて育てる事はそんなに珍しい事ではありませんでした。「あさか来た」のあさも後の三井財閥の妾の子で養女として育て嫁にやっています。そんな時代が続いていました。大橋勢似の事も御寺に行けばはっきりするでしょう。
角田氏は郷土史家ですが、その本は読みましたが、古い中島屋の大橋家と新しい児島屋の大原家は当時は倉敷の双璧でした。大橋家が勢いをなくしてからは児島屋が勢力を伸ばします。当時も、今も大原家の事は真実を書けない事でしょう。倉敷は大原家が握っているからです。特に地元の郷土史家は遠慮して書きません。
立石の脱走と襲撃を書いた「脱走記」は名古屋の女性作家の江原江夏美子さんが小説として発表し直木賞の候補作になっています。亡くなられておられる事でしょうが、探して見られたら新しい事が見つかるかも知れません。だが、この人が取材をしたのが角田氏ですからどのように書いているかは分かりません。読みたかったのですが求める事が出来ませんでした。
大橋家の皆さんは東京へ出られているのですか、倉敷では話か聞こえてきませんから。
私は下津井屋の事件は櫻井代官だと思って書きました。倉敷の幕末を書き本にしていますがそのなかに敬之助も櫻井も書いています。
http://nakano.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/311699
これは検索にて「脱走記」が売られている場所です。よろしかったら求められて読んでは如何でしょう。あくまで小説として、もうひとつの立石孫一郎として

ありがとうございます。
岡崎さんの書かれているものは前に読んだことがあります。克明に書かれていました。一つの真実を書き現わされておられると思います。
だが、私は郷土史家でも歴史家でもありません。表記されているその当時の世情に拘ることなくその裏を想起する事により全体を考察したいと思う方です。
大橋家の系図を見てもその当時の家のあり方を偲ばせています。私は下津井屋事件の後に騎兵隊にいた立石が出向き備中の港の下津井会談があったということに問題があると考えています。この件に対してはどの郷土史家も語っていません。この会談で立石の以後の行動がすべて決まっています。岡崎さんはもう盗作は許さない、とは、反論はしませんが調べたものに対しては盗作はありません。書くとしたら参考文献として追記する事だけです。が、私はこの人の物を参考にいたしません。郷土史家と創作者のロマンは異なります。私は、立石の行動の裏に何があったのかを書きたいのであって調べられた物には興味はありません。むしろ維新前夜に長州と薩摩が討幕に対してどのような事を考えていたか、この日本をどこへ持って行こうとしたのかに興味があるのです。その事に立石がどうかかわったのか、書く視点が違います。
楢崎剛十郎の殺害に対しては当時の奇兵隊組織の乱れによる不満が鬱積していたという事もあります。櫛部坂太郎、引頭兵助らの脱走兵に対してはそののちにことは理解していません。
だが、この事件が末孫に何を思わせるのか、維新の前に没した坂本竜馬と立石孫一郎の生き方は次の時代を作る礎石になったと思えます…。

久しぶりです。
そうですか遺品が、それはよろしかったですね。また一つ新しい真実が表に出ますね。
立石孫一郎さんの芝居は私が記憶している範囲ではありません、警察が干渉したと言う事は明治時代なのかも知れません。
私は一介の戯作者、郷土史家の方の物は読んでいません。一人郷土史家の井上さんと話しました。
今明治維新のクーデターがはっきりとしつつあります。
今、もう一度立石孫一郎さん、今の視点で書こうかと迷っています。
私はた立石孫一郎さんが犯人ならなぜ下津井屋をおそったのかが理解できなかった、それは今も思う事です。張本人は児島屋、浜田屋であったので゜すから…。そして、作州の立石家に毛利の感状を貰い受け騎兵隊に入隊してすぐに隊長になっていることも疑問です。高杉晋作、坂本竜馬との繋がりを妄想します。また、倉敷代官所襲撃、浅尾陣屋を襲撃、備中老中板倉を襲撃に向かったのか、この事件によって誰が得をしたのか、備中の放虎となって周防に逃げ帰る、千歳橋の上で清水美作の家臣によって銃撃されて亡くなる。これが義の行いであったのか、大谷、立石、大橋らの、庄屋、大庄屋の系譜からしてそんな短慮な人柄と庄屋道を身に着けていたとは思われません。
これは私の思いです。江夏さんがどのように書かれているかは全く知りません。もとっ前に自死されているので聞きようもありません。
聞かれた郷土史家は、また倉敷歴史資料担当はどなたでしょうか、一度取材をしてもいいと思っています。
大橋さんは立石孫一郎さんの何が知りたいのでしょうか、私は彼の行動は高杉晋作の檄のもとであったと言う認識です。
倉敷に来られて色々と調べてみてください。江戸の末期を俯瞰して明治維新を検証してください。
この当時には日本の開国を必要に迫った世界の動き、今の国際金融が、薩長に幕府に莫大な投資をしています。徳川慶喜がなぜいとも簡単に何倍もの兵力を持ちながら戦を放棄したのか、これも世界の趨勢であったのか・・・。
いたずらに書き連ねました事お許しください。

大橋さん、倉敷に来られて色々と新しい発見がありましたか。
今、歴史家、小説家のなかでは立石孫一郎の行動が竜馬と同じように維新に貢献したという話が多く聞くようになりました。明智光秀を本能寺の変の謀反人ではないと言う証拠をつかんで歴史を変えをとしています。その方も立石の功績を認めておられます。竜馬と同じように維新のために行動し殉死したと言う事を述べておられました。惨劇の主人公と称されていました。
私が真備までいけませんでしたので立石孫一郎を演じた息子に行ってもらい沢山の写真と資料を貰ってきてくれました。
一応目を通しました、が、玉島は備中松山藩の飛び領地の庄屋宗沢家、岡山藩の福田村の庄屋佐藤家などは大分離れているので参考になると思いました。当時の岡山藩は徳川慶喜の弟が藩主であり、松山は老中板倉の自領であったという事で、徳川の方から見る事が出来たという点で貴重だと思われた。が、倉敷の村役がどのように書き残しているか、当時はその人達は保身で薩長と幕府にも良い顔を見せなくてはならず、維新前と言う事もあり、私には不明なのです。
私は、下津井屋事件は代官によると断じました。櫻井が代官になって先の代官大竹が下した裁断をひっくり返し「倉敷は港ではないので津留めなど起ころうはずがない」無罪にしています。それに待ったをかけたのが大橋敬之助、御正道を批判したのです。櫻井としてはそれを利用して事件を起こし尊王をあぶり出したという事を書きました。
敬之助は大谷家の血筋です。母方は立石家の血筋です。大橋家のおけいの母は立石家の血筋です。つまり敬之助とおけいの母は姉妹です。その子、いとこ同士が結ばれています。
と言う事は大橋さんは大谷家、立石家、大橋家の血筋を持って生まれてきているという事になります。
敬之助は庄屋道を学び庄屋学を修めています。江戸時代には武家には子孫繁栄を考えて「嫁はお尻の大きい人を」と言う考えがありました。それは庄屋も同じであった事に間違いがありません。
血を絶やさないと言う事絶対にしてはならない事だったのです。それは死しても生き続けると言う考えです。
はたしてそんな時勢に、日本が大きく変わろうとしていた時期にしてもそう簡単にその身分を捨てられたでしょうか。
敬之助は良寛の生き方を学んでいます。それにあこがれたとしたら余計に短慮だったとは思えません。良寛も大庄屋の子として生まれなにもかも捨てて自由に生きた人です。
敬之助と同じように庄屋見習いの時に年貢米の事で役人と争い自棄になり得度しています。相照らす事も出来ます。
江戸の末期とは言え、世情はそんなに混乱していなかった。大名は財政赤字で疲弊していた。が、まだ崩壊するところまでいってなかった。
ここに、イギリス、アメリカが日本を植民地にするという行動を起こしてきています。イギリス、アメリカは植民地をいかに手のなかに入れるか、それはその国に氾濫を起こさせる事、宣教師の布教がうまくいかなかったときには、その国を分裂をさせ戦わせて勢力を衰えさせて奪う、これは常套手段であった。現在でも
イラク、リビアにおいて国家の分裂をさせるために金を出して反勢力を作り転覆させています。
日本も、長州にはイギリスが支援し、幕府にはフランスの今で言う国債金融が支援をしていました。つまりロスチャイルドが金を出していたという事です。竜馬はその手先で亀山社中を起こし武器弾薬、軍船などを売りさばく武器商人であった。竜馬が暗殺されたのはある筋の怒りを買い殺されました。幕府、薩長の手のものではないと言う事です。
立石孫一郎を理解するうえでは立石亡き後の日本の動きを無視しては過ちを犯すことでしょう。
維新はクーデターです。敬之助はそれを知っていたとは思われません。
日本の未来、そのために殉じた。若くして亡くなっても子供儲け四人の血筋を残しています。
大橋敬之助、立石孫一郎は生きています。その血が続くことにより生き続けていかられことでしょう。
今、歴史は真実を見る事が出来だしました。これから刻々と新しいものに塗り替えられる事でしょう。

私は倉敷在住の戯作者でした。60歳で劇作家、演出家、書きものなど総て捨てて今はのんびりと遊び人をやいます。時に身辺雑記、世情に対する想い、人間のあり方、未来においての生き方などを書き連ねています。あくまで自分に対してのものです。
今回、立石孫一郎150年の催しに対しては興味がありました。40年前に立石孫一郎を「瀬戸の夕立」として千歳橋で銃殺をされるまでの物語を書いていたので当時を思い起こして出来れば訪れたいと思っていたのですが、私の息子に資料だけでもとおもい出向かせました。
維新の歴史が明らかになっている現在、今の視点で書いて見たいと言う思いもありました。「瀬戸の夕立ち」を元にして15年くらい前に「天領倉敷代官所炎上」を書きあげて芸文館大ホールで公演しました。
無論小説も、戯曲も創作です。郷土史家の井上賢一さんに色々と教わって書き上げたものです。作中には高杉晋作、坂本竜馬などを登場させました。坂本竜馬は、長宗我部の残党で郷士の身分で全国を動き亀山社中、海援隊となるとその経済力は何処から出ているのかで書けなくなりました。グラバーに行きつきました。40年前には誰も二人の結びつきを思ってもいなかった時代です。竜馬を金の亡者として書きました。
司馬遼太郎さんが竜馬とグラバー(ロスチャイルドの使用人)を結びつかせない事情も知っていました。
過日、大橋敬之助さんの子孫の方からメールを頂きました。私が立石孫一郎の演劇を公演している事を劇団のHPで見ての事でした。読みたいというものでした。このように思って書いた人がいると言う範囲で理解してほしい旨を書き添えました。
郷土の歴史を掘り起こしておられる郷土史家人達には頭が下がります。
頂いた資料目録のなかで玉島の庄屋宗沢家の物が注意を引きました。松山藩の飛び地の玉島の庄屋が何を書いているのかという興味でした。
今、明智光秀の本能寺の変が見直され新しい局面にあります。歴史は生きていて常に新しく変わるものだと言う事を認識しています。
倉敷の江戸末期の街並みが知りたくて役所に問い合わせると真備にあると聞いたのですが、訪れることなく無視して江戸末期の人々の生活を維新の動き中で生きた人たちを物語にして書きました。真備の図書館にあると思います。「倉子城草紙」です。
 余分な事を書きました。お許しください。
 歴史は常に生きている・・・そう思っています。
 ありがとうございました。ご精勤を感謝いたします。


 四十年も昔に書いた立石孫一郎をもう一度今の私の考えを入れたものを書こうと思った。死んだ人の墓を掘り起こすようなものなのかも知れない。

立石孫一郎の事は、南奇兵隊百五十名の脱走者を率いて倉敷代官所を闇打ちし、浅尾陣屋を襲撃した事件を司馬遼太郎、江夏美子さんらが書いているが、それは当時の歴史観で書かれている。
はたして維新後に日本国の世情を考えて俯瞰しているものなのかとそれを完璧に取り入れたものが書かれているのかと言う疑問がわいている。
司馬さんはある筋の方で維新を正面から書けなかったろうと思う。これについては異論のある方も多かろう。
維新が薩長によるクーデターとする考えはまるでなかった。また、竜馬を偉人として書きすぎている。今では竜馬はクラバーに操られた武器商人と言う認識は広がっている。
イギリスが薩長に莫大な支援をし、フランスが幕府にこれも強力に肩入れをしている、それを支持し金を出したのが今で言う国際金融であることが明らかになった。日本を植民地にしたい、が、日本国は、日本人は古来より蓄え積み重ねた独特の文化を持ち、識字率は世界最高な民族であった。宣教師もいともたやすく布教が出来ないと嘆いていた。
植民地にする場合、まず宣教師が上陸し布教を始め民族の心をとらえる、男を奴隷とし、女を性奴隷として海外に飛ばす、これは植民地政策の基本であった。軍隊を派遣し不平分子をことごとく殺し、女を犯して子供を産ませる。女はみもごり子供を生んだ。その子供たちが反攻もせずに植民地を維持するからなのだ。これがその当時の植民地を広げる方法だった。
が、日本にはこれは通用しなかった。日本幕府を崩壊するには、薩長のように氾濫を起こす勢力が必要だった。その両藩に武器弾薬、金の支援をし国の分裂を起こさせることが支配する上では必要な事であった。
では立石がそこで何を感じ見たのだろうか。ここに私は深く切り込みたい。高杉に竜馬に彼はどのように接したのか。
この事は維新の後の政府のあり方を見ればよくわかる。
つまり使い捨てなのである。あの野蛮で人殺し集団の天誅組に対しては後に維新に功績があったとして贈位をしている事を見れば理解を深められよう。
立石の役目は何であったのか、ただの意恨による暴挙だったのか、それにしては江戸時代を庄屋として続けた家柄の血としてはお粗末と言うほかない。武士道と同じで庄屋道を良くしていたはずである。短慮と言う簡単な判断は私にはできない。
また、江戸の末期に幕府に対しての不平不満を広めたことにより幕反勢力が台頭していくなかで国民はどのように動いたのか、また、そのなかにあって立石はどのような考えを持ち国民の平和と幸せを、国のあり方を求めたのであろうか。二百六十年の幕府の奉りごとに対してどのように思っていたのだろうか。
アメリカ、ロシアの開国の要求は日増しに熾烈になっていた時代、イギリスは長州の武士を密出獄までさせてロンドンに迎え西洋の世情と国のあり方を教えたのか。
これは武力による威圧と内部分裂を起こさせる両面の策略による植民地の強奪であった。
威圧に怯えた幕府、策略にはまった薩長を立石はどのように見ていたのか。
倉敷代官所襲撃、浅尾陣屋に対しての攻撃、松山城を火の海にするという計画行動は、日本国に対しての内部の分裂の走りであった事を考慮しなくては立石の行動は理解できないことだろう。
立石は激情になぜ走ったのか…。
それは私が書く大きなテーマとなることだろう。


 2018/6/16   吉馴 悠


  江戸末期の日本の現状


立石は何を考えて行動したのか。当時の幕藩体制についてどのように思っていたのか、幕府に対して何をどのように改革してほしかったのか。庶民の生活はどうであったのか、はたして江戸時代は身分制度が厳格に定着していたのか。混迷のなかで果たして文化は作られるものなのだろうか、精緻な技術が子弟制度のなかで磨かれ引きつがれるものなのか、国民は朝廷に対してどのような判断をし見していたのか、国民の庶民の生活はどうであったのか、食料の自給率は日本の人口を定めたのか、ほころびは何処に見えたのか、文久の大飢饉は幕藩体制に不平をもたらすものであったのか。
ここで世界の情勢に目を向けてその情報を知らなくては日本の立ち位置が分からない。植民地の拡大が植民地政策を行っていた諸国には重大な問題であった。アジアで残されていたのは日本とタイ、中国、朝鮮は中国の属国、植民地でないが各国へ割譲して植民地とはなっていなかった。が、それはアヘン戦争のように諸外国による統治であった。中国はむしろアジアと言うより白人社会に迎合していたというよう。
アジアで残されていたのは日本だけ、と言ってタイは風土病が蔓延していて植民地には不都合な状態であった。
日本への植民地政策は宣教師も投げたとおり世界のなかで一番の識字率を持ち日本固有の文化を花咲かせていて、また、朝廷の支配、江戸幕府の政策、仏教の浸透がそれらを阻害していた。
イギリスは日本に対して内部の分裂を画策することにし、不平不満を煽り兆機させようと暗躍していた。まず戦国時代に豊臣方として敗れた薩長にその種を落とした。江戸との距離間もそれに最適であった。この発端は何と戦国時代にさかのぼるのである。毛利、島津、そして、長宗我部の残党らは戦国時代の遺恨を忘れることなく心において今があった。それを利用しようとしたと言う事はイギリスがそこまで日本の歴史を熟知していたと言える。まず、長州の若者五人を密出国させロンドンで国のあり方、国民の生活、人権、要するに民主主義を叩き込み、産業革命の重要性を教えた。後にそれらの若者は維新後に日本の中枢になる。その間、吉田松陰らの啓蒙が盛んに行われ、国のあり方に不満を募らせ、開国への機運が急速に広がった。日本国内では内乱がおこりそれが維新のクーデターへと結実する。
そんな背景のなか立石はその事実を見ていたのか。
私は、立石の行動をその時の行動としては見ない。あくまで維新後の薩長の政治を見て立石の行動を判断したい。見えてくるものは何か、はたして欧米列強に追いつけ追い越せの文明開化が国に取って、国民にと取って平和で幸せなことだったのかを思考したい。維新の付けは日清日露大東亜戦争の道を歩まなくてはならない、イギリスの、諸外国の思惑のなかで行わなくてはならない布石だったのだ。
立石は死しているが、その発端を作った人物として改めて考えなくてはならないと言う事であろう。


大橋さん、真備への旅はどのようでしたか、新しい発見がありましたか。
私にも興味がありましたが、住まいが倉敷の南の海に近いところなので少し遠いと言う事と最近は遠くに車で走らないので気になりながらいけませんでした。が、どのような資料が保存されているのか舞台で立石孫一郎を演じた息子に目録と展示されている古書を撮影してきてほしいと頼み行って貰いました。これらの資料は郷土史家によって解き明かされているものでしょう。が、私には一つの資料に目が行きました。江戸末期の老中板倉の松山藩の飛び地、玉島の庄屋宗沢家が書き残している物にです。これは何らかの時にはぜひ読んでみたいと思います。幕府側の思惑がどうであったのかを知らせてくれるものとして重要なもののように感じます。また、備前藩の福田の庄屋佐藤家の物も読んでみたいと思います。そのほかの物は明治の世になって都合よく改ざんされているかも知れませんから。郷土史家の原三成氏が大橋家は村上源氏が起源だと言っていますが、それなど当てにしない事です。当時はみんなそこに起源を持って行きましたから。江戸時代には系図屋と言う商売があって金の高さで先祖がコロコロと変わる系図を書いて金儲けをしていました。
私は立石孫一郎の行動を見るときに彼が千歳橋で銃殺された後の明治の世の事を熟知して彼の行動を組み立てたいと思っています。明治になって日本国に何が起こったのか、それを知らなくては立石の動きがはっきりとつかめないと思っています。それは坂本竜馬がなぜ暗殺されたのか、誰が殺したのか、そのあと何が起こったのか、それを読みとらなくては彼の素性は分かりません。竜馬のいい面しか語り継がれていない、不思議です。竜馬なきあとお竜は横浜で再婚をしています。竜馬が討幕の立役者なら薩長はお竜をおろそかには扱えなかったという事です。なぜ、明治政府は庇護しなかったのか。何時の世も歴史は真実を語らずに都合のいい虚構を真実として広めてきました。明治政府としては竜馬の行いが不都合で切ったと言う事です。
大橋さんは、大谷家、立石家、大橋家の血が流れています。敬之助とおけいはいとこ同士でした。
また、日を改めて書き続けます。



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